一人を除く全員がこちらへ身体を向けたまま
目を瞑り声を揃えて歌い続けている
少し手前に立つ相手は背を向けているが
白い髪とフリルのついたブラウスが
誰であるかを如実に語っている
「……待って!」
歌声が一斉に止んで、彼らの顔が
現れたアリスに対して驚きを示し
振り返ったの金色の瞳が
最大級の困惑で見開かれていた
「アリス!」
ざわざわと、口々に戸惑いの言葉が
小波のようにその場の空気を埋め尽くし
納まる頃に 通りのいい低い声が響く
「来てしまわれたのですか…」
「ゴメンね 私の為に色々してくれてたのに」
「いいえ、それがあなたの望みであるなら
誰を責める謂れもありませんよ」
穏やかに微笑む彼を押しのけ、アリスへ
駆け寄りたい衝動を堪えながら
「…記憶の番人として、あなたの
最後の役割を果しなさい」
国を統べる役目の少女は最後の命を下す
第十四話 泡沫の詩
「仰せのままに 女王陛下」
片手を下げた礼を丁寧に返してから
波打ち際から砂浜へ戻ったと
入れ替わるように、隣にいたチェシャ猫が
海へと足を踏み入れる
「チェシャ猫…どうして」
訊ねるアリスへ答える猫の表情は
普段と同じ ニンマリとした笑顔だった
「僕の役目は君を導くこと…だけど
もうこれからは、必要ないのさ」
「そう…ありがとう、チェシャ猫」
長く側にいてくれた猫に感謝と
ありったけの愛を込めて言葉を送り
「ずっと気になってたの」
こちらへ近づいてくる白い青年へ
視線を移し、彼女は続ける
「別れる時のみんなの言葉や様子や
あなたが時々見せる…悲しげな瞳が」
全てを覚悟し この場へ現れた
決意を秘めた笑みを見せるアリスの前で
彼はようやく立ち止まると
「申し訳…ありませんでした」
深く礼をして 白い頬に伝わらせた
一粒の涙を拭わぬままで答える
「現実を見つめられるようになり…
これから幸せを手に入れるあなたの
妨げに なりたくなかったのです」
「分かってるよ、みんなも…あなたも
私の為に考えて行動してくれてたんだよね」
こくり、と小さく頷いて
「失礼致します…目を閉じていてください」
は伸ばした右手をアリスの頭へ―
「やっぱり…不思議の国の記憶を
消してしまうの?」
聞こえた一言に かざされていた
手の動きが止まった
すっと横に手をずらし、見上げてくる
こげ茶色と視線を合わせて彼は口を開く
「今度は、全ての記憶を消したりしません
…消えるのは不要な"私達"の記憶のみです」
そう告げる彼の微笑は やはりどこか
叔父を思わせるような笑みであり
どこか哀しげにも見えるものだった
「楽しかった思いや大切な方々との
記憶は ずっと残り続けますからご安心を」
もう一度ゆっくりと戻した手を
彼女は両手を伸ばして強く握ると
そのまま下へと降ろしながら言う
「消さなくていいよ…ううん
みんなの記憶はこのまま 残しておいて」
向けられた表情に狼狽と心配とが
混じっているのは、誰の目にも見て取れる
それは目の前にいる彼だけではなく
海で時を待つ住人達の何人かも同様だった
「私達はもう会えなくなるのです…
覚えていると、あなたを悲しませてしまいます」
「大丈夫だよ 」
それでも、アリスは力強く言った
「会いたくなるかもしれないけれど
悲しくはならない」
最後まで自分の側にいてくれた彼らを
不安にさせたままにしないように
「チェシャ猫も女王様もあなた達も…
みんな、私の心に生きてるんだから」
笑顔のままで お互いにお別れできるように
「本当に…お強くなられましたね」
殊更に優しいささやきを降らせて
「ありがとうございます、アリス」
涙を流しながら笑った彼は
とても満足そうな表情をしていた
すっと両手が離されたのを見計らい
「さあ もう時間ですよ」
「ええ…分かっています」
声をかけたビルへ返してから、礼をして
"記憶の番人"は再び波打ち際を越えていく
砂浜に佇んだまま 彼女はそれを見送った
暮れていく空の下 赤い海だけが
際立つように輝きを放つ
どこか優しいその光に包まれて
『アリス、私達はアリスに幸せをもらったよ』
海の上に立つ住人達の身体は
足元から、うっすらと消え始め
彼らは自らを生み出し
そして愛してくれた愛すべき存在へ
最高の笑みと共に…言葉を添える
『ありがとう そしてお幸せに』
笑んだまま アリスは大粒の涙を零し
何度も何度も頷きながら、答える
「私も みんながいたから幸せだったよ
ありがとう…たくさん、たくさん幸せになるね」
まるで淡雪のようにはかなく
住人達が 光に揺らいで溶けていく
視界が静かに歪んでゆく中で耳に届くは
彼らの歌う柔らかく優しい、別れの唄
そしてアリスは―
いや、亜莉子はようやく
現実の世界で目を覚ました
室内は未だ薄暗さを保ってはいたが
厚手のカーテンを通して尚、辺りを
白く照らす光と鳥の声とが
夜が明けたことを告げている
「あれは…夢、だったの…?」
うつ伏せで倒れこんでいたはずの身体は
いつの間にかキチンと布団を被って
ベッドに入り込んでいて
着ているのは赤いエプロンドレスではなく
普段愛用する寝巻きに変わっている
ベッドから抜け出した足元に
じゃれ付いてくる猫の生首は…ない
空けた部屋のタンスにも、当然のように
自分が使う服が畳んでしまってあり
厚手のカーテンの隙間から外を覗けば
あるのはアスファルトの通りと近所の家屋
そして電柱が立ち並ぶ 見慣れた風景
目に映るのは全て当たり前の現実で
さっきまで見ていたのは正に夢としか
思えないようなモノだった
…けれども
「私は…全部覚えてる…
全部……忘れてないよ、みんな」
目まぐるしく変わる見知らぬ街の光景も
強引で、ちょっと怖い目にあうけれども
自分を愛してくれてる彼らとのやり取りも
触れてくれた 抱きしめてくれた手の温もりも
最後に見せてくれた笑みとあの歌声も
全て、彼女にとって掛け替えの無い
"現実"として刻まれていた
「さようなら…今まで、ありがとうね」
きっと届いていると信じて
小さく呟いた亜莉子の閉じた目から
二筋の雫が、零れ落ちた…
白い教会の控え室で、亜莉子が今正に
身にまとう白いドレスは
あの時、街で渡された"花嫁衣裳"と
瓜二つのデザインだった
「どうぞ」
ノックされた扉に声をかければ
すっと開いたそこから顔を出したのは
キチンとスーツを着込んだ康平
「何だ、驚かんのか」
「さっき武村さんが来てたから…
そろそろかなって」
やはりどこか反りが合わないのか
彼の名前に対し 僅かに眉をしかめるも
晴れの日の一時は水に流すと再び決めて
彼女へ向き直った康平は、もごもごと
むず痒そうに口を開く
「亜莉子…その、綺麗…だよ」
「ありがとう」
「きっと姉さんや寿夫義兄さんも…
天国から、喜んでくれてるさ」
「そうかな…そうだと、いいな」
間を置いて ややワザとらしく時計に目をやり
「そろそろ時間か……また後でな、亜莉子」
言って照れくさそうに康平は去っていく
その背を見送り…彼女は、静かに微笑んだ
"アリス"と呼ばれていた少女は大人になり
たくさんの幸せを手に入れた
帰る人のあるささやかで温かな家
ずっと側で、優しく支え続けてくれると
誓い合った生涯の伴侶
今ではすっかり一員となった
"彼"を思わせる灰色の猫
そして台所からさほど離れていない一室で
"不思議の国のアリス"を開いて熱心に読む
小学校低学年ほどの、男の子
髪の色や質などは父親譲りながらも
くりくりとした目元は 母親に似ていた
「あら、またその本を読んでたの?」
そっと後ろから覗き込む彼女に気付き
少年は本を開いたそのままで振り返り
輝くような笑顔を見せる
「うん だってぼくこのおはなしだいすき!
おかあさんも、だいすきだよね?」
「ええそうね」
「……ねぇおかあさん」
「なぁに?」
首を傾げる彼女へ、幼子はひしと
力一杯抱きついて問いかける
「おかあさんはぼくのこと、すき?」
亜莉子は…柔らかな微笑みと共に
我が子をそっと抱きしめた
「ええ…だーい好きよ 」
腕の中には、幸せを注がれて
幸福そうに笑う子供が一人
夕焼けに赤く染まる部屋に聞こえるのは
遠くからの…幼きあの日にも耳にした
懐かしく切ない誰かへの唄
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あとがき(というか楽屋裏)
狐狗狸:歪アリ住人全員&現実組の二人も
何とか出して、最終章も終了いたします
亜莉子:本当にお疲れ様 そしてこの話と
ジャンルを見てくださった皆さんも
今まで本当にありがとうございました!
武村:僕も過去だけでなく花嫁姿の
亜莉子ちゃんと絡みたかった…花婿か父親で
康平:ちょっと待て今聞き捨てならん事言った!
亜莉子:…ええと、私の結婚相手や二人の
位置づけとかは結局伏せたままなの?
狐狗狸:まーね その辺りは好きなように
想像していたくつもりです
亜莉子:そうだ!あの街が結局どういう原理で
出来てるか聞きたいんだけど…
狐狗狸:基本は不思議の国のシステム(?)を
ベースに、住人達と国自身がイメージと力を
振り絞って生み出したのが あの街です
亜莉子:へー…じゃあ舞踏会にいた人達は?
狐狗狸:首なし死体の協力の元、が
記憶の操作をして何とかしました
亜莉子:え!?い、意外とスゴかったのね…
彼が指揮を取る形で描いた最後の"楽曲"
皆様の心に残ったなら 幸いです
作品は残しておきますがジャンルの掲載は
ここで終了させていただきます
様、そして読者様…今まで
読んでいただいてありがとうございました!