あの道化師の正体は誰なのだろう
眼下に広がるチェス盤の様な大地を前に
私はいまだにそこで惑う
先程まで会った者達は、まず除外される
シロウサギも既に歪んで消えてしまった以上
実体を持たぬ影が影響を及ぼすことはない
この戦局を知るのはビルだけだが
アリスに一番遠い真実の番人が歪むのも
彼の側にいた私がこうして行動出来るのも解せない
…ならば猫だろうか?
いや、それもない 本当に憎らしいが
あれはアリスに対しては忠実なる猫だ
よしんばそうであっても、チェシャ猫なら
こんな回りくどい事をせず
全ての住人達をその爪で引き裂くはず
としたら他の住人が歪んだか?
いや、猫の言葉はそれを否定している
考えても埒が明かず、頭を少し掻き毟る
「情報が少なすぎる とにかく他の住人を
見つけ出して話を聞かなくては…」
第五話 列車と森
詩に書かれていないという言葉が嘘なら
あの道化師の名前は、詩に書かれている
もう一度 紙を開いて文字を見れば
名前らしきものは唯一つ
一番上に書かれた「ジャバウォック」
「土地のどこかに、ジャバウォックの事を
知っている方がいればいいですが」
呟きつつ紙をしまい、私は丘を下ると
そこから小川を幾つか飛び越える
飛び越えた大地に足をつけた、と
感じた瞬間 周囲の風景が一変した
「…え、ここは 列車?」
川を越える前は切り開かれた広い野原と
草の生い茂る大地がハッキリ見えていたのだが
現在立っている場所は、正に列車の中だ
軽快なリズムと共に僅かに揺れる車内
窓の外には 見慣れないような
牧歌的な風景が流れている
一昔前の外国の様式さながらの座席が並び
乗客も乗っている 普通の列車である
…ただ、荷物を置く網棚にズラリと並んだ
イチゴジャムの瓶と
席に座る客がパン族達の影という事を除けば
「誰かが列車に入ってきた!」
形状からして、鶴岡パン店に幽閉される
いちごジャムパン達に間違いは無さそうだ
ジャムパンの影の一つが声を上げると
「本当だ!」
「あの白い髪はさんだ!」
他の席の影達も次々と声を上げて立ち上がり
一斉に私へ視線を向ける
敵意を向けられているワケではないのだが
流石にこの状況は落ち着かず、
「あ、あの…あなた達 この列車は
どこに向かっているのかご存知ですか?」
我ながら間が抜けていると思いながらも
とっさに浮かんだ疑問を尋ねる
だが、彼等は私の話を聴いてはいなかった
「さん この子はおいしいよ、さぁお食べ!」
「君の方がおいしいだろ?ねぇ食べてさん!」
「食べてさん、彼を食べて!」
「彼をお食べよさん!」
口々にそう言いながら、いちごジャムパン達が
私へと迫ってくる
「食べてさん!」
「彼を食べて!」
「食べて!食べて!食べて!食べて!」
影の姿であるにも関わらず、自ら迫りながら
互いに相手の腕などを掴み合い
私の口へ運ぼうと推し進んでくる
『食べて食べて食べて食べて食べて食べて食べ
て食べて食べて食べて食べて食べて食べて食べ
て食べて食べて食べて食べて食べて食べて食』
「うわああああああぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!?」
小刻みに揺れる不安定な車内で
止める間も何かに捕まる間ももらえずに
いちごジャムパン達に押し倒された
食べてと連呼を繰り返しながら
黒い指が、腕が身体中を這い回り
口の中へと容赦なく侵食してくる
「むっ、ぐが…やめ…っうは!」
本気で息が詰まりかける中 必死で
全ての腕を振り払って立ち上がる
影達を掻き分けながら別の車両へ
抜けようとするも、
彼等が密集し過ぎていてドアまで届かない
「と、とりあえず実体に戻さねば…!」
網棚へ置かれた不自然なジャム瓶が
依代だと思い、それを掴む
私の推測は正しく 影達のいくつかは
元のいちごジャムパンに戻った
…しかし、彼等の区別と
棚のジャム瓶の区別はまるきり付かない為
逐一影を触る事になり 成果は芳しくない
「影なんかより僕の方がおいしいよさん!」
しかも実体に戻ったパン達までもが
影と入り乱れて、私へと襲いかかって来る
「ぱ、パン達!私の邪魔をせず大人しく席にっ」
「やだっ!僕を食べてよさん!」
「彼も食べてよさん!」
制止の声はまったく聞き入れられず、状況は
良くなる所か更に悪化していた
とてもジャバウォックの事を聞く余裕などない
こ、このままではドードーと同じ
満腹死の末路を辿ってしまう…!
窓の外に目をやると、うっそうと茂る森が
ひどくゆっくりと滑ってくる
「やはり、活路はそこしかありませんか…」
スピードが落ちてきているとはいえ、
走行中の列車の窓から飛び降りるのは
やはり気が進まないが…
『食べて食べて食べて食べて食べて』
満腹死を目前にして、背に腹は変えられない
私はハンマーで窓を叩き壊し
ジャムパン達が怯んだ隙に、出来た大穴から
覚悟を決めて飛び降りた
列車の中と外の景色に、どれ程の高低差が
あるのかまでは 思考に至らなかった
無我夢中で受身を取ると
思ったよりも遥かに 着地の衝撃は軽かった
身を起こしつつ辺りを伺うと、どうやら
列車の窓から見えたあの森の中らしい
近くには列車の線路らしきモノもなく
薄暗い木立の中、近くに誰かがいる様子も無い
一歩踏み出した足が 何かを踏んだ
「これは…朽ちた森の看板…?」
少しかがんで、風化しかけた文字を読む
"この場所に入った者は、自らの名を忘れる
長くいると やがて全てを忘れる"
「名を…全てを忘れる?何の事やら…」
皆目意味が分からなかった為 私はその板から
視線を外し、先へ進み始める
この場所に何らかの呪いでもかけてあり
中にいる者の記憶を消すというのだろうか?
まったくもってナンセンスだ
記憶の番人が記憶を忘れるなど
笑い話にもなりはしない
それに あの方から賜った名前を忘れるわけが
「あの方…あの方とは、誰だ?私の名は」
――の記憶の――である 我の呼び名は
「名前が…思い出せない」
まさか 本当に忘れてしまったというのか
信じられず、この場を駆けながら
必死で自らの記憶を掘り起こすが
端からボロボロと零れて行くような感覚に襲われる
必死に森を抜けようと駆けるが
木々が途切れる事は無く、ただただ
恐ろしさが私を侵食してゆく
出られない……このまま 何も分からぬ者として
永久にここを徘徊するのか…!?
私の思考を遮るように、葉刷れの音が響いた
勢いよく首を向けると
「あぁよかったぁ、アナタもこの森で
名前を忘れちゃったヒトでしょ?」
真っ黒な顔の無い女の人がこちらへやって来た
片手に 銀色に光る丸く平たい板を持っている
「なんだかアタシもこの森に来た途端
自分のコト ぜぇんぶ忘れちゃってぇ」
ここって中にいるヒトの名前も記憶もぜぇんぶ
忘れさせちゃうみたいで、と彼女は言う
「でもここから出られたら 忘れたコト
ぜぇんぶ思い出せるんだってぇ
だからアタシがんばってるんだけど
一人だと、出るってコトも忘れちゃって」
どこかのん気な口調で 彼女はこちらを見つめる
「ね ここを出るまでの間、一緒に歩いてよぅ」
言って、目の前にすっと黒い手が差し出される
何故か少し恐ろしさを感じてたじろぐが
彼女に対して失礼だと思い直して
「…私でよろしければ」
微笑み、その手をそっと受け取った
隣に誰かがいるとやはり落ち着くもので
先程まで必死で駆け回っていたのが嘘のように
すんなりとこの場所から、開けた場所に
「…思い出したよぉ、アンタがだね!」
驚愕と敵意のこもった台詞を彼女が吐いたのは
私が記憶を思い出すよりも 一瞬早く
影の彼女が今まで所在無さげに持ち歩いていた
銀色のトレイを振り上げて
私に向けて打ち下ろしてきた
咄嗟にそのお盆を空いていた手で受け止める
「きゃあああぁぁぁぁぁぁぁぁ…!!」
…彼女の悲鳴と トレイに吸い込まれる様子に
私の記憶と思考はようやく事態に追いつき
起こっていた事を理解した
「どうやら、待ち伏せするつもりが
影の方も森の魔力に囚われていた…ようですね」
そして、トレイが彼女の依代だったようだ
なんともご都合主義な話ではあるが
事実は小説よりも奇なり、とはこの事だろう
「首の繋がった家政婦を見るのは
絶えて久しいですが…あなたのお名前は?」
「メアリ・アンと言いまぁす」
黒を基調とした家政婦服に身を包み
間延びした声で 彼女はそう名乗った
――――――――――――――――――――――
あとがき(というか楽屋裏)
狐狗狸:力の入れ所はぶっちゃけ列車内の
ジャムパン達のシーンですな
廃棄:初っ端からぶっちゃけやがったコイツ
狐狗狸:あ!こら廃棄君 君の出番はもっと
先なんだからダメでしょ出てきたら!
廃棄:今回の話の面子であとがきやったら
絶対ぇカオスになんだろーが!
狐狗狸:…それもそうか、ご苦労様です
廃棄:おう つーかの奴も
案外無茶すんなぁ、列車から飛び降りるって
狐狗狸:アレは飛び降りざるを得ないでしょ
正直歪アリならではのホラーシーンだし
廃棄:釈然としねぇが、まあそうかもな
でメアリ・アンの口調はアレでいいのか?
狐狗狸:もう変えようがないし 忘れっぽい
キャラらしいから、いいかなーと思ってます
廃棄:適当だなお前
次回 進んだ先の二人の諍いに巻き込まれ…!
様 読んでいただいて
ありがとうございました!