あなたは私を覚えていない


あなたは我を 思い出せない





それはあなたにとって良きこと
そして私にとっても良きこと







あなたが私を忘れても


我は望む アリスの幸せのみを












第八話 彼と猫の因果











「でも、戻るって言われても…」





改めて私は目の前の赤い海を見渡し
急に不安になる





これから、どうやってこの海を越えるの?


船も…チェシャ猫の身体もないのに





「帰る手段は一つじゃないのさ、森へ進もうアリス」


「…帰る手段も何も どうやってここに来たのかさえ
思い出せてないのに?」





チェシャ猫の声は 相変わらずのん気だった





「心配すること無いよ、森を右へお進み





…前の時も思ったけど その自信は
どこから来るんだろう?


でも、頼れる相手がチェシャ猫しかいない
今の状況では逆にその態度に安心する





私は導かれるまま 森を右へと進んだ









少し歩いたその先に、絵に描いたような
古びた井戸が現れる





「何この井戸 すごい古い…」


それに、何か見覚えがあるような…





「飛び込むんだよ アリス」


「え?」





私は二つの意味で驚いた





チェシャ猫が突拍子も無い事を
言い出した事と


前にもどこか同じような会話を
交わした覚えがある事に





「でも…飛び込んだら 死ぬんじゃ」


「死なないよ、落っこちるだけ」


「落っこちたら死ぬでしょ!?」


「死なないよ」





この会話も 初めてじゃない感じがする


デジャブってやつなのかな?


それとも、前の事件での記憶を
忘れているだけなのかしら?





「井戸はいろんな所に通じているからね
望むところへいけるのさ」





私は近くまで歩み寄って 中を覗き込む





「でも…底が見えないんだけど」







井戸の中は暗く 闇が広がっている





足元に転がっていた石を投げてみたけど
いつまでたっても音が聞こえない





あまり気は進まないけれど


片足をかけ、またぐようにして
井戸の縁に腰掛ける





「やっぱり入らなきゃダメ、だよね」


「そうだね」





淡々とまるで他人事みたいに
チェシャ猫は言う





怖いからやめようかな、と思って


縁から後ろへ足を戻しかけた時だった







バッグの中にいたチェシャ猫が
前の方へと体重をかけた





「わ、わわっきゃああああぁぁーーー!





バランスを崩して、私は井戸の中へと
まっ逆さまに落ちていった









たしか前の時もこんな風に
チェシャ猫に落とされた気がするっっ!





私の頭の中にその記憶が駆け巡る中
猛スピードで闇を落下してゆく







意識が遠のきそうになった瞬間


ふいに落下のスピードが遅くなる





緩やかに落ちながらも辺りを見回せば





「あ!」





バッグからこぼれたいくつもの白い欠片と
くるくる回るチェシャ猫の首が見えた





私はとりあえず


手の届く所にいたチェシャ猫の首を
捕まえて 問いかける





「ねぇ 前の時も私をこんな風に
井戸に落とさなかった?」


「そうだっけ?」





猫はニンマリした顔のままそう答える


…これは問いただしてもまともに
答えてくれなさそう





経験と雰囲気でなんとなくそれを察知し、
私は質問を切り替える





「この井戸、どのぐらい深いの?」


さぁ?井戸の気分次第で変わるんだよ」





聞き覚えのある これまた曖昧な答え


欠片がぼんやり光って何だか幻想的だけど
それでも辺りは暗く 何も見えてこない


『深い気分』なのかしら、と思った時

次第に井戸の中が明るくなる





あれ?意外と浅……!?







「え…!?





井戸の壁を埋め尽くす様な肖像画には
の顔が描かれていた





肖像画のはどれも、真っ白な髪に
きれいな金色の目で肌も白く


全てのとても悲しそうな顔
私を見ている





見る見るうちに 悲しそうなの髪の色が

白から黒へと染まっていく


髪だけじゃなく金色の目も





まるで蝕まれていくかのように黒くなり
肌も浅黒く変化していく





何十枚、何百枚の絵が一つ残らず


同じように黒に侵食される





完全に髪と目の両方が黒く染まると、


絵の中のが苦しそうな顔をする







「きゃあああああああああ!」





私は悲鳴を上げた





何十枚 何百枚と並ぶの顔が、

苦しそうな顔のままどろりと溶け出したからだ





どろどろと形を失う顔


眉をよせた、苦しげな表情


救いを求めるように 絵の中で
私に向かって手を伸ばす




「い…いやあっ!!」





耐え切れなくなって、私は目をつぶった






ごめんなさい 許して!


なぜか 頭の中でそう叫んでいた


とても覚えのある感覚だった







「アリス…底だよ」





チェシャ猫の声に、目を開ける


底にはあの時と同じように 淡く光る
白い人影がたたずんでいた





白い耳に、白い顔


あれは…あの姿は





「シロ…ウサギ?」





シロウサギが、こちらを見上げて
両腕を伸ばしている様に見えた





ダメ またぶつかる…!





底に激突する瞬間、白い腕に
受け止められたような気がした











鈍い衝撃を感じ、陶器の割れる音がする





「あいたたた…」





お尻を擦りながら辺りを見回すと
そこは公園だった





私はお茶会のテーブルの上にいた


チェシャ猫がももの上に落ちてきたので
転がっていく前に捕まえる





「戻って、来たの?公園に」


「戻ってきたんだよ」





あっさりと返すチェシャ猫を抱えながら
テーブルの上から降りる







藤棚があるのに、私達はどうやって
テーブルの上に振ってきたのかとか


あの井戸はどういう仕組みなのかとか





色々考えちゃうけど


きっと、考えてもどうせこっちじゃ
"ジョーシキ"の一言で片付けられちゃうし





…誰の言葉かは忘れたけど





「……考えるだけムダね」







ひとりごちて、ハッと井戸の中で
こぼれた欠片のことを思い出し


片手でチェシャ猫を抱えながらも
バッグの中身を慌てて確認する





白い欠片はいつの間にか
ちゃんと揃って入っていた





数を数えると 九つ全部ある


…九つ?また 増えてる…!?







お早いお着きですね、アリス」





背後から聞こえた低い声に振り返ると

バラ園の入り口に、白い姿が見えた





…!」





柔和に微笑む筈のその顔に得体の知れない
恐怖を感じて 立ちすくむ





暗く淀んだ金色の目が、チェシャ猫を睨む





「どこに隠れているかと思いきや…
そこにいたのですか チェシャ猫


「僕はいつでもアリスの側にいるのさ
アリスが望むのならば」





ニンマリと笑うチェシャ猫


だけど頬の辺りが張り詰めている気がする





「あなたのような遠い存在が
アリスを幸せに出来るとお思いですか?」



「少なくとも、アリスは記憶の消去を
望んでないよ







の目がスゥ…と細くなり、


今にもチェシャ猫をハンマーで叩き
来るんじゃないかとビクビクする





けれど 彼はふっと笑い





まぁいいでしょう
いずれはあなたも消してあげますよ」





バラ園の門をくぐって消えた







体の硬直は解けた


けど、私は別の意味で固まっていた





……チェシャ猫とって 本当に
昔 何があったのよ!?








意を決して聞こうと口を開く





「ねぇ チェシャね「アリス、バラは
もう眠っているよ」



「え…バラって眠るの?」


「眠るよ 早寝早起きだからね」





記憶を忘れているせいなのか
言っている意味が良くわからない


…なのに 何故か私はほっとしている





バラが眠っていなきゃいけないわけ
何かあるのかしら?





「さぁ、を追いかけよう」


「え、う、うん」





何だかうまくはぐらかされたような
気もするけど まぁいいわ


今はを追いかけなきゃいけないし


今度 ちゃんと聞いてみればいいことだと思うし







門のバラたちはつぼみになっていて


ほとんどが白いバラの中、所々
ピンク色に染まっている





更によく見ると 入り口の植え込みが
ちょこっと抉れてる気がする





「……さっきは雰囲気にのまれちゃったけど
次は負けないようにして説得しなきゃ」





決意を新たに、私はバラ園の門をくぐった








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あとがき(というか楽屋裏)


狐狗狸:バラ園に戻った辺りまで書いてて、
うっかりバラ達の記述を忘れてたのに気づきました


チェシャ猫:うっかりだね


狐狗狸:そうなんだ でもまぁ特に必要はないし
アリスの記憶から早々に消えてたって事で


アリス:そんな適当でいいの!?


狐狗狸:いいのいいの それよりさぁチェシャ猫


チェシャ猫:なんだい?


狐狗狸:今回のと話してるシーンの辺り
書いてて思ったけど 君、黒くない?


アリス:あ それ私もちょっとそう思った


チェシャ猫:黒くないよ 灰色だよ


狐狗狸:いや、姿の問題じゃないって


チェシャ猫:黒いのは今のの髪さ


狐狗狸:だから、そういう意味じゃ…
(肩に手を置かれ)何かな亜莉子ちゃん


アリス:こうなったら何を聞いてもムダです


狐狗狸:…そうなんだ、察してるね


アリス:………はい




次回 バラ園を抜けた先でアリスを待つのは…?


様 読んでいただいて
ありがとうございました!